父が娘に語る経済の話。(ヤニス・バルファキス著 関美和訳)

タイトルにあるように経済の話。経済に興味を持ったきっかけは国債。日本が借金大国だということはよく知られているし、学校では日本の財政を家計に例えてそのヤバさをなんとなく感じた記憶がある。将来世代に負担を押し付けるなという声も聞かれる中で、その直感的なヤバさに反して、借金は増え続ける上に国債が増えてもまだ大丈夫、などという解説もよく目にする。コロナ対策で財政が問題となる中、本当に大丈夫なのか、どういう仕組みなのか気になり調べてみると、大きく次の2つが分かった。(多分いろいろ間違ってる)

  • 発行した国債を銀行が買うことで、市場にお金が回る。その国債を買う銀行のお金とは国民の預金である。(国の予算は国民の税金、国債を買うのは国民の預金)
  • お金の貸し借りが発生すると利子が発生する。すなわち借りたお金より多くお金を返さなければならない。すなわち、借りた人は、借りたお金を元に、借りたお金より多くのお金を生み出さなければならない。(利益が出なければ貸し借りの連鎖が止まってしまう、経済的な成長・拡大が義務付けられている)

国債が、いわゆる普通の借金とは少し異なることが分かったとと同時に、今の経済のシステムが借金が前提となっていることが分かった。生きていく上で経済の影響を受けるのに経済のこと何も知らない!と思い経済の本を手に取るに至った(長い読むまでの経緯終わり)。読んでみるとかなり面白いし、堅くなく読みやすくイメージしやすい。勉強になりました。

内容については、本の帯にあるように経済の本質や政治、歴史との関わり、資本主義についてなるほどと思わされる。冒頭には"なぜアボリジニがイギリスを侵略しなかったのか?"という問いが示される。 歴史は往々にして支配するものとされるものという構図になるが、それも経済と関わっていることが述べられる。経済は「余剰」によって生まれ、余剰は文字や国家、軍隊、宗教を生み出した。イギリスは余剰をため込む必要があった一方、アボリジニはその必要がなかった。アフリカは南北に長く気候が様々であるため、農耕技術がどこかで生まれても広がらず、余剰が生まれにくかったのに対し、ユーラシア大陸は東西に長く、農耕技術がすぐに広まり、余剰を生み出すようになった。国の成り立ちや歴史も経済とそれを生み出す「余剰」の観点で語られたことが新しく感じられた。

次のテーマは市場社会(資本主義)で”市場のある社会”から”市場社会”へどう移り変わったのか、また、その2つはどう違いその社会をどう変えたのか、というテーマ。

  • 「経験価値」から「交換価値」へ。 全てのものが「売り物」に。
  • 「生産→分配→債権・債務」(生産してから分配)から、得られるであろう生産物を予測し、それを踏まえて借金するようになった。すると利益を出さなければ借金を返すことができないので、利益が目的化した。富を増やすために競争が発生し、競争に勝つために借金をし、技術を手に入れようとした。

このような変化により経済は循環しなければ崩壊してしまうものとなり、金融機関が力を持つようになった。起業家は未来の交換価値を現在に引っ張ってきて銀行から借金をする。その未来が実現できなければ借金が返済されない。未来から引っ張ってきた価値が実現できないと分かったとき経済は破綻する。そのとき中央銀行(政府)の出番が来る。金持ちは自分たちが潤うことを政府が邪魔してくるのではないかと恐れる一方で、必要としている。

労働者は雇ってくれる起業家が必要で、起業家はモノを買ってくれる労働者が必要。起業家はお金を貸してくれる銀行が必要で、銀行は利子を払ってくれる起業家が必要。銀行は守ってくれる政府が必要で、政府は経済を動かしてくれる銀行が必要。富は集合的に生み出されてきた。

経済が複雑なものだということが感触として分かってきた。銀行は(利子を生み出さない、眠っているだけの)現金を嫌う。とは言え現金がなければ預金を返すことができない。すぐに現金に変えられる何かを手元においておく必要があり、国債はそれにぴったりで、金融システムの潤滑剤といえる。国債が特別な債権であることを再認識した。

さらに勉強になったのは経済は”予想が現実になる”という構造を持っていること。例として直感的に「働く対価を下げれば雇ってもらえる」と思ってしまうが、実際にはそうはならないことが挙げられている。、経営者側が賃金が下がることで労働者の購買意欲が下がって売り上げが落ちるのではないか、他の経営者もそう思っているに違いない、ならば、今雇用を増やして生産量を上げるのは得策ではない、と先行きに不安を感じ雇うことをやめてしまうという理屈である。経営者の悲観的な予感が現実のものとなる。これを狩人のジレンマで喩えている。みんなが鹿を狩ることを信用すればベストだが、誰かがウサギに飛びつくのではないかという憶測が生じると、鹿を狩る方が良いと分かっていてもウサギを狩ることになってしまう。集団全体が楽観的なら、楽観的な憶測が現実となり、集団全体が悲観的なら、悲観的な憶測が現実となる。理屈通りにはなかなかいかず、先読みが市場を混乱させるのである。

読み進めると、さらに経済の難しさを知ることになる。

ロボットによる「自動化」でコストが下がり、「競争」によって価格が下がり、ロボットは製品を買うことはないので「需要」が下がり、この3つの力によって価格がコスト以下に押し下げられてしまう。最新の危機に投資していた投資家はあてにしていた利益が実現できないことに気づき、一連の流れで経済危機に陥る。ところがここで、ライバル企業の倒産によって競争が減ること、機械を買うより人間を雇う方が安上がりだと気づく。

利益のための自動化が利益と真逆の結果をもたらすことになる。生産活動から人間を排除することはあと一歩のところで実現できない。機械化が進むと利益のうちほとんどが機械の所有者に集中してしまう。

破壊は市場に交換価値をもたらす。例えば山火事。山それ自体には「交換価値」はないが、家事が起こると、それを消すためのヘリや消防車は石油を消費する。破壊された社会インフラを復旧するのにお金が動く。

環境問題はずっと問題にされているが、市場経済の根本に「破壊が追い風になる」という構造があると気付いてびっくりした。解決策として「すべてを民主化」するか「すべてを商品化」することが挙げられ、著者は前者を支持している。市民が学び考え、市場原理に任せるだけでなく、良い選択をできるようになるしかない、ということか。

貧富の差が問題視されるようになって久しいが、この本にあるように機械化、テクノロジーの導入はそれを一層加速させる可能性が高い。経済活動の拡大は地球の破壊につながりかねない。今や経済を人間から切り離すことはできないが、今の世界の延長線上にはどんな世界があるのか?人間のあるべき形を見据え行動できるよう、多くの人が経済について学ぶ必要があると思った。また、切り離せないからこそ、経済と世界のいろんなことが結びついている、すなわち経済を理解すると、そのいろんなことが分かるともいえる。この本のエピローグで"仮想現実の中で実現され理想的な世界で生きること”は幸せか?というような思考実験が紹介されているが、そのような哲学的な問いについても考える必要があると思った。ムンディ先生の歴史(経済編)が近々出るようだが、読みたさが増した。それにしてもこの本を読んで今の経済をかなりいびつに感じる。ひとまずもう少し勉強してみたいと思う。