これから「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳)

哲学の本を読もうと思い立ち、1冊読んだ。その本は哲学の起こりから現代哲学までの流れをざっくり述べたものだったが、そのほとんどはいわゆる哲学のイメージ通り屁理屈を小難しく書いたような感じで面白いと感じられなかった。しかし最後のページで現代には政治哲学なる分野があると書かれており、この本が紹介されていて、面白そうだったので読むことに。ちょうど「パンデミック倫理学」という京大のYoutubeチャンネルを見て、倫理学や哲学が現代社会においても重要だということに感じ始めていたということもあり良いタイミングだった。

「正義」と聞くと少し抵抗感があるという人も多いと思う。今日では「正義を振りかざす」「正義を押し付ける」というようなネガティブな文脈で使われることも多い。この本の主題を短く表現すると「「何を正義とするか」を議論しなければ良い社会は築けない」と言えると思う。正義と聞いてTwitterで見かけた"「思想が強い」ことがネガティブに受け止められるが、実際には「無思想」の方が危険である"という投稿を思い出した。かいつまんで書いておくと、

自分を無思想だと思っている人は、自分が「普通の感覚」を持っている、逆に自分と違う人を「変わった」人だと感じてしまう。それは自分に内在化してしまった(自分にとっては「普通」な)考え方を押し付ける全体主義的な振る舞いに行き着く。太宰治の「人間失格」で「それは世間が許さないよ」「世間ではなく、お前が許さないのだろう?」というシーンがあるそうだが、自分が不満に思うことを、誰かが不満に思うだろうと言い換え、自分の立場を明かさずに批判するのが分かりやすい例。自分を「普通」でいられなくしてしまうような他者に攻撃的になりやすい。何らかの意見を持ち、自分を他者との相対的な関係で捉えることが重要。私は決して「普通」ではないが、あなたも決して「普通」ではない、という前提を理解することが必要。その普通でなさ(やばさ)こそが主体性である。違いに寛容になろう。

この考え方にはとても共感した。過激な思想を持った方が良いとか、そういうことではないと思うが、自分の考えを持ち、その考えを自分の考えとして発信することが議論の土台になるのだと感じた。

ついでに「パンデミック倫理学」で学んだことについても簡単に書き残しておく。ざっくり言うと、コロナ渦で行われた「自粛」について、それは人々の行動の自由を奪うものであるが、本来自由は奪われるべきではない。緊急事態であったとは言え、国が半強制的に自由を奪う判断には、何かしらの根拠が必要である。出歩かないことで自分が感染を防ぐため?人にうつさないため?感染が拡大するともっと大変なことになるから、今は行動すべきではない?逆にそれらのリスクを受け入れるならば、勝手な行動も認められる?などなど、いろんな主張が考えられる中で、どの根拠とそれに基づく判断が支持できるか、それは倫理の問題である。

倫理とか哲学こそ、いま大事なのではないかと思えてくる。こうしてこの400ページ超の本を読むモチベーションも湧いてくる。以下、やっと内容に入っていく。道徳にまつわる(政治的な)判断や、そこから要素を抽出した事例について、どのような信念に基づいて判断を下せるのかを考えていく、という構成になっている。取り上げられる具体例は、傭兵制度、代理出産アファーマティブ・アクション、妊娠中絶、先祖の罪を謝罪すべきかどうか、など。これらの問題に対し、主に以下の3つの正義へのアプローチが提示されている。

  • 功利主義」 最大多数の最大幸福を追求
  • 自由至上主義」 自由な市場、成人の自由な契約に基づく
  • 正義は「美徳」と深く関わる

上2つは比較的わかりやすい。得する人も損する人もいる中で社会全体で見たときにどの程度プラスか?という視点や、なるべく制約を与えず市場の動向に合わせるという視点は今の社会にかなり浸透しているように思える。この2つの考え方はそれぞれ「利益」や「当人の意思」によって決まっていくために「道徳」が入り込む余地があまりないという特徴がある。しかし、それだけで全てがうまくいくワケではない、と筆者は主張する。功利主義に対する反論として、次の事例を考える。

車の制限速度を緩めれば移動時間を節約できる、ただし事故によって命を失うリスクが高まる。移動時間の短縮によって得られる経済的利益を、交通事故による死亡者数で割ると、55マイルから65マイルへの制限速度緩和は、実質的に1人の命を154万ドルと換算していることになる。

全ての物事を単一の尺度に換算してそれが最大となるようなものが正しいという考え方に基づくと、命をお金という価値に換算できてしまう。何をもって「幸福」とするかがまた難しいところだが、道徳が入り込まないような価値で全てを置き換えようとするのは難しいように思う。ただ1つの尺度で効果や価値を足し引きして測ろうとする試みは1つの視点としてありだと思うし、それでカタがつく問題もあるだろう。

次に、全て市場に任せよう、自由な市場による結果なら仕方ないという考え方に対しては、そもそも契約が「対等」な状況で結ばれたものであるかという問題や、重要なのは利益か同意かという問題がある。(全ての法律は正義にかなうものか?)婚姻契約の例では

自分は20年間浮気をしていなかったのに妻の浮気が発覚したとする。そのときの怒りの理由は「契約を結んだのに、それを破った」「僕は君一筋だったのに、このざまだ」の2種類考えられる。2つ目の理由は契約と直接関係しない、道徳上の理由である。この主張は婚姻契約を必要としない事実婚でも可能だ。

全ての義務は契約から生じるのか?暮らしているコミュニティに大きな影響を受けるとき、必ずしもそうとは言えない。そこに契約を超えた義務が生じうる。そのコミュニティにおける名誉に関わる問題となってくる。(どんな人に結婚する資格があるか?という問いは、結婚という社会制度の目的とそれが称える美徳とは何か?を考えること。)(自国民と他国民で自国民を優遇することは認められるか?)

全体を通しての結論としては、政治から「美徳」を排除する(何を「善」とするかの議論を避ける)ことはできないということ。世界は複雑だが、その複雑さは、その人の考え方によって問題の見え方が全く異なる、すなわち、人によって「正義」が異なるところにあるのではないかと気づいた。人に自分の「正義」を理解してもらうことが重要だと思った。いずれにしても、社会問題の解決には道徳や正義、信条、文化、価値観などによる影響が少なくない。一方で、特定の道徳律を押し付けることは正しくない。その辺りがうま〜〜く共有されないと事態は進まないのだと思った。巻末に紹介してある同じ著者による本:「それをお金で買いますか?」も面白そうなので読みたいと思う。市場に任せるだけでは市場社会に破綻してもらって、人類全体が何かしらの美徳に従って生きるようになれば世界が変わるかもしれないなぁ。

400ページは長い上に、話もやや難しいのでかなり読み応えがあったが、個別の事例を見るだけでも、社会から道徳を切り離せないこと、及び、そのことを市民が自覚することの重要性が感じられる。考え方によって捉え方が変わる、その見方の正当性を磨く哲学の重要性も感じられる。

多元的社会に生きる人々は、最善の生き方について意見が一致しない。なので、政治と宗教や道徳を切り離して「正しい行い」の基準を示そうとしてきたが、国民の権利と義務を決めるにあたり、「善い生」とは何か、という議論から逃れることはできない。道徳に関与する政治は、より正義にかなう社会の基盤となるのだ。

多くの人に読んでほしい1冊。より良い社会の姿とは。