アドラー心理学入門(岸見一郎)

なんか有名だし、教育とも関連が深いみたいなイメージもあるのでいつかかじってみたいと思っていたアドラー心理学。ほどほどに薄い新書で、帯に「どう生きたらいいのか…」アドラー心理学なら明確に答えることができる!とあるのを見て読むことにした。まずアドラーは、1870年ごろに生まれ医者になり、軍医として第一次大戦にも参戦し、一時は社会主義に傾倒するも、ロシア革命を見て政治改革による人々の救済を諦め、育児や教育による変革を目指すようになる。そしてユダヤ人の迫害を避けるように拠点をアメリカに移し、そこで生涯を終える、というような生涯を送った。自分のことを知的なエリートとは考えない、謙虚な姿勢で普通の人々との関わりの中で人間の本性に迫った人物であったようだ。70年以上前に"子供たちが手を膝の上で組んで、静かに座っていなければならず、動くことも許されないような学校はもはやない"と述べていたらしく驚いた。

アドラー心理学では行動は信念から出てくる、と考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動をとるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。

親や教師は、子どもと接する際絶えず自分の行なっていることが、子どもの適切な信念を形成する援助となっているかを点検していかなければなりません。

この信念のことは「ライフスタイル」と呼ばれていて、人は「素材」を元にライフスタイルを決定しているとされている。(柔らかい決定論アドラーは教育者としてもすごい人だということがうかがえる。いま学校の先生になってもやっていけるんじゃないか。すごい人はいつの時代に生まれてもすごい。

アドラーの考えのポイントは、人間の悩みは全て対人関係の悩みである、ということ。これをアドラーは「個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる」と表現している。

人の言動は、その言動が向けられた相手役がいて、その相手役から何かしらの応答を引き出そうとしている、と考えます。人を孤立した個人として見るのではなく、対人関係の中でその行動の意味を見ていくのです。

この「相手からある応答を引き出したい」という視点がアドラーの支持する「目的論」につながっていく。ここがこの本で一番勉強になったポイント。目的論に対して「原因論」もある。原因論は「何かが原因となってその行動が引き起こされた」(カッとなって叩いてしまった、感情が原因で叩いてしまった)という考え方。一方、目的論は

感情が私たちを後ろから押して支配するとは考えません。感情は多くの場合相手にこちらのいうことを聞かせようというふうに相手を動かすために使うのです。怒りを使うと相手がいうことを聞くだろうと考えて、怒りをその目的のために創り出します。

腹が立ったので怒鳴った、というのが原因論だとすれば、怒鳴るために腹を立てたというふうに考えます。

これは自分には無かった発想だったので勉強になった。(感情やライフスタイル、思考、経験を個人が使うのであって、その逆ではない)そのなるほど感をより強くした次の例。

愛情不足が問題行動の原因である、と言われることはよくあります。
実は問題は愛されているか否かというところにあるのではありません。愛情だけでは十分ではないのです。
子どもを愛しているというだけで子どもとの関係がよくなるわけではありません。愛があるからいいコミュニケーションが成立するのではなく、むしろいいコミュニケーションがあるところに愛の感情は生まれる、愛の感情は結果である、と考えます。
そしてコミュニケーションは技術です。愛を学ぶことはできませんが、技術であれば学ぶことができるのです。
原因を過去に求めてもそれらを変えることは事実上不可能なことなのです。
そのような見方とは違って適切な対処の仕方が明確にわかるということが、行動の目的を見ていくことの大きなメリットです。目的は過去ではなく未来にあるからです。アドラーは私たちに関心があるのは過去ではなく未来である、といっています。目的は自分の中にあるので、過去や外的なことの何一つ変えることができなくてもいいのです。

この辺めちゃくちゃ勉強になった。そして教育に応用できそうな考え方であることも納得できる。その後に書かれている具体的な実践について簡単に書くと、罰するのはだめ、そして褒めるのもだめ(無意識的に上下関係を作ってしまう)、感情を共有したり、思ったことを伝えるのが良い、ただし下心まで伝わるとアウト。その他キーワード、普通であることの勇気、課題の分離、優しくキッパリと(根気よく話し合い、課題を分離し、不必要な介入はしない。教師と学生は「対等」でなければならない。)少し教育に寄ってしまったが、健康な精神を育てるために大切なことは、健康な精神ででいるために大切なことでもある(横の関係、自己受容、他者理解、他者信頼、他者貢献)。そしてそれは幸せになるために必要なものでもある。

人は全体との関わりの中で生きているわけですから、全くの私的な、あるいは個人的な意味づけ(私的感覚)ではなくよりコモン(普遍的な)判断としての「コモンセンス」を持つことが有用であり、重要である、とアドラーは繰り返し説いています。
とはいえ、価値観が多様化している中にあって共同体を想定することの危険性も明らかになってきました。

最近マスク警察や自粛警察、あるいはネット上の誹謗中傷などがニュースで話題になるが、これを共同体としての感覚(あるいはもっと狭く私的な感覚)を押し付けと考えると、2文目の危険性についての記述は、まさに今の状況のことを言っている感じがした。ネットで炎上したり、叩かれたりすることは日常茶飯事だが、次の言葉はいい言葉だと思った。

私たちのことをよく思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ

  • 客観的な世界に生きているのではなく、自分自身の興味、関心にしたがって世界を意味づけ、そのようにして世界を知るというふうに考えている
  • 他人との関わり合いの中で生きている
  • 正しさは相対的
  • 他人のことは理解できない(だからわかり合おうという努力が必要)
  • できることは自分の力で解決する、できないことは助けてもらう

など、すごく普遍的で人間の本質を捉えた理論だと思った。そして、自分の人生において他人のことは重要でない、手の届く範囲で頑張って人生を作り意味を見いだしていくのだ、その代わり自分の行動について責任は取らなければいけない、というめちゃリアルな考え方だとわかった。(それゆえ、アドラーは自分の理論はコモンセンスであり、文字におこすようなものではないと言って、ほとんど本を書かなかったそう)人の心理が理解できれば、人の行動が理解できる、人が形成する社会の理解も近づく、というのが心理学の1つのモチベーションだと思うが、この本を読んで、世界の見え方が1つアップデートされたような気がする。