辞書を編む(飯間浩明)

少し前に読んだ「機械の言葉〜」で人間の言葉が想像以上に複雑なことがわかった。その中に、言葉による言葉の説明が意味を持つのは、言葉なしにいくつかの言葉の意味を理解している時だけであって、それを持たない機械に言葉の意味を理解させることは難しい、というような記述があった。その本を読んでいるくらいのときに ”昔講義で、「恋」の語釈が「異性を親しく思う気持ち〜」となっていてヘンに思いませんか?と言ったら学生は笑っていたが、今は学生の方から「異性とは限らないですよね?」と指摘がくる。時代は変わるものだ。”というようなツイートを見て、言葉の意味を言葉で説明している辞書に興味を持ち、この本を購入。

国語辞典は中学のとき以来触ってない気もするが、あの辞書を作るのにこれだけの情熱が注がれていたと知って驚いた。それを調べて言葉の意味を理解する訳なので、いい加減なことはかけない。いろんな意味がある言葉の場合どの意味をまとめて載せるか、派生した言葉をどうするか。説明を足しすぎるとかえってわかりにくくなってしまうこともある。新しい使い方が生じれば、それを追加する必要があるし、一過性のもので定着しなさそうなものは省くべきである。それらを踏まえて、掲載する言葉選び、削る言葉選び、用例選び、今まで載っていた言葉の手入れ、そのときに考慮すること、それらの土台となる辞書の大まかな方針の決定など、辞書を作るプロセスを知ってとても勉強になった。その辺りに辞書ごとのこだわりが込められていることも知っていろんな辞書を見てみたくなった。同じ言葉の意味を見比べたりすると確かに面白いかもしれない。そういう時間を学校でとったらいいのに。言葉面白いって思ったかもしれないのに。

特に、「愛」や「恋」にどういう語釈をつけるか、のところはとても興味深かった。言葉というのは何かしらの対象、イメージにつけられるものなので、その「意味」とはその言葉が実際に使われた場面を集め、その例からその言葉が指している対象、持っているイメージを切り出していくしかない。それを過不足なく、時代に合う形で、選び抜いて一冊にまとめる、という辞書編集作業がいかにスゴいことなのか感じられた。(これを著者は「言葉による世界の模型づくり」「言葉だけで世界を構成する」と表現している。)ふだん何気なく使っている言葉の新しい見方を学べて勉強になった。(「ふだん」と「いつも」は同じ?違う?)

アドラー心理学入門(岸見一郎)

なんか有名だし、教育とも関連が深いみたいなイメージもあるのでいつかかじってみたいと思っていたアドラー心理学。ほどほどに薄い新書で、帯に「どう生きたらいいのか…」アドラー心理学なら明確に答えることができる!とあるのを見て読むことにした。まずアドラーは、1870年ごろに生まれ医者になり、軍医として第一次大戦にも参戦し、一時は社会主義に傾倒するも、ロシア革命を見て政治改革による人々の救済を諦め、育児や教育による変革を目指すようになる。そしてユダヤ人の迫害を避けるように拠点をアメリカに移し、そこで生涯を終える、というような生涯を送った。自分のことを知的なエリートとは考えない、謙虚な姿勢で普通の人々との関わりの中で人間の本性に迫った人物であったようだ。70年以上前に"子供たちが手を膝の上で組んで、静かに座っていなければならず、動くことも許されないような学校はもはやない"と述べていたらしく驚いた。

アドラー心理学では行動は信念から出てくる、と考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動をとるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。

親や教師は、子どもと接する際絶えず自分の行なっていることが、子どもの適切な信念を形成する援助となっているかを点検していかなければなりません。

この信念のことは「ライフスタイル」と呼ばれていて、人は「素材」を元にライフスタイルを決定しているとされている。(柔らかい決定論アドラーは教育者としてもすごい人だということがうかがえる。いま学校の先生になってもやっていけるんじゃないか。すごい人はいつの時代に生まれてもすごい。

アドラーの考えのポイントは、人間の悩みは全て対人関係の悩みである、ということ。これをアドラーは「個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる」と表現している。

人の言動は、その言動が向けられた相手役がいて、その相手役から何かしらの応答を引き出そうとしている、と考えます。人を孤立した個人として見るのではなく、対人関係の中でその行動の意味を見ていくのです。

この「相手からある応答を引き出したい」という視点がアドラーの支持する「目的論」につながっていく。ここがこの本で一番勉強になったポイント。目的論に対して「原因論」もある。原因論は「何かが原因となってその行動が引き起こされた」(カッとなって叩いてしまった、感情が原因で叩いてしまった)という考え方。一方、目的論は

感情が私たちを後ろから押して支配するとは考えません。感情は多くの場合相手にこちらのいうことを聞かせようというふうに相手を動かすために使うのです。怒りを使うと相手がいうことを聞くだろうと考えて、怒りをその目的のために創り出します。

腹が立ったので怒鳴った、というのが原因論だとすれば、怒鳴るために腹を立てたというふうに考えます。

これは自分には無かった発想だったので勉強になった。(感情やライフスタイル、思考、経験を個人が使うのであって、その逆ではない)そのなるほど感をより強くした次の例。

愛情不足が問題行動の原因である、と言われることはよくあります。
実は問題は愛されているか否かというところにあるのではありません。愛情だけでは十分ではないのです。
子どもを愛しているというだけで子どもとの関係がよくなるわけではありません。愛があるからいいコミュニケーションが成立するのではなく、むしろいいコミュニケーションがあるところに愛の感情は生まれる、愛の感情は結果である、と考えます。
そしてコミュニケーションは技術です。愛を学ぶことはできませんが、技術であれば学ぶことができるのです。
原因を過去に求めてもそれらを変えることは事実上不可能なことなのです。
そのような見方とは違って適切な対処の仕方が明確にわかるということが、行動の目的を見ていくことの大きなメリットです。目的は過去ではなく未来にあるからです。アドラーは私たちに関心があるのは過去ではなく未来である、といっています。目的は自分の中にあるので、過去や外的なことの何一つ変えることができなくてもいいのです。

この辺めちゃくちゃ勉強になった。そして教育に応用できそうな考え方であることも納得できる。その後に書かれている具体的な実践について簡単に書くと、罰するのはだめ、そして褒めるのもだめ(無意識的に上下関係を作ってしまう)、感情を共有したり、思ったことを伝えるのが良い、ただし下心まで伝わるとアウト。その他キーワード、普通であることの勇気、課題の分離、優しくキッパリと(根気よく話し合い、課題を分離し、不必要な介入はしない。教師と学生は「対等」でなければならない。)少し教育に寄ってしまったが、健康な精神を育てるために大切なことは、健康な精神ででいるために大切なことでもある(横の関係、自己受容、他者理解、他者信頼、他者貢献)。そしてそれは幸せになるために必要なものでもある。

人は全体との関わりの中で生きているわけですから、全くの私的な、あるいは個人的な意味づけ(私的感覚)ではなくよりコモン(普遍的な)判断としての「コモンセンス」を持つことが有用であり、重要である、とアドラーは繰り返し説いています。
とはいえ、価値観が多様化している中にあって共同体を想定することの危険性も明らかになってきました。

最近マスク警察や自粛警察、あるいはネット上の誹謗中傷などがニュースで話題になるが、これを共同体としての感覚(あるいはもっと狭く私的な感覚)を押し付けと考えると、2文目の危険性についての記述は、まさに今の状況のことを言っている感じがした。ネットで炎上したり、叩かれたりすることは日常茶飯事だが、次の言葉はいい言葉だと思った。

私たちのことをよく思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ

  • 客観的な世界に生きているのではなく、自分自身の興味、関心にしたがって世界を意味づけ、そのようにして世界を知るというふうに考えている
  • 他人との関わり合いの中で生きている
  • 正しさは相対的
  • 他人のことは理解できない(だからわかり合おうという努力が必要)
  • できることは自分の力で解決する、できないことは助けてもらう

など、すごく普遍的で人間の本質を捉えた理論だと思った。そして、自分の人生において他人のことは重要でない、手の届く範囲で頑張って人生を作り意味を見いだしていくのだ、その代わり自分の行動について責任は取らなければいけない、というめちゃリアルな考え方だとわかった。(それゆえ、アドラーは自分の理論はコモンセンスであり、文字におこすようなものではないと言って、ほとんど本を書かなかったそう)人の心理が理解できれば、人の行動が理解できる、人が形成する社会の理解も近づく、というのが心理学の1つのモチベーションだと思うが、この本を読んで、世界の見え方が1つアップデートされたような気がする。

 

ヒトの言葉 機械の言葉「人工知能と話す」以前の言語学(川添愛)

授業で機械の言語について少し学んだタイミングでこの本に出会った。帯を見ると、しゃべるAIについても書かれているようで、AIがどのように言葉を扱っているか気になると思い購入。

AIの進歩は目覚ましい。最近だと、どっかの研究でAI同士が勝手にコミュニケーションをとったり、「人類を滅ぼす」というような発言をしたというようなニュースは衝撃をもって伝えられた。自分も「これは結構やばいんじゃないか?」と何となく思っていたが、事情はそんなに単純じゃないことがこの本を読むと理解できる。コンピュータとは「数」を扱う機械であって、言葉も数に変換されてから処理されている。すなわち、コンピュータが発した「人類を滅ぼす」という言葉もコンピュータにとっては数字の羅列を出力したに過ぎないということがある。(画像も画面を区切って、数字のデータで指定されたところに指定された色を出力している)したがって人間のように言葉を理解しているわけではない。この「AIは数を入力とし、数を出力するもの」でしかないということは押さえておきたい。

昔のAIには「こうだったら、こう」ということをいちいちプログラムし、人間と同じような振る舞いを目指していたが、その方法はうまくいかなかった。(例えば猫の判定。写真を見せられて猫かどうかを判断するとき、人間は何となく猫っぽさを掴み、それを基準に判定するが、人間にとっての猫っぽさをうまく言語化できなかった)この、プログラムされた通りにしか動かない、融通の効かないコンピュータにどうすれば人間のような柔軟な判断をさせられるか、というのがAIの研究の歴史であり、そのために生まれたのが機械学習(あんまりよくわかっていなかったが、読み込んだデータを元にパラメーターを決定し関数を求めるようなものだと説明され納得した)である(深層学習もその延長)。飛躍的に能力は向上したが、読ませたデータの影響を受ける(さらに、読み込む情報の正しさを疑うことできない)ことや、どういう計算の仕方でそれを出力しているかがわからなくなる、ブラックボックス化などの問題を抱えている。いずれにしても、AIは言葉の知識を持っているわけではない。(意味を教えればいいじゃないかと思うが、「言葉による言葉の説明」のためには、言葉によらずいくつかの言葉の意味を知っていなければならない。このような、「じゃあこうすれば?」と思ったことを直後に説明してくれるのでスッキリ読める。)

AIにできること、(今のところ(?))できないこと、課題が徐々に明らかになり、思ったよりもできることが少ないというか、大変さがつきまとうことが理解できた。それも勉強になったのだが、より印象に残ったのは人間の言葉の難しさ、複雑さについて。何気なーく言葉を使っているので意識したことはなかったが、この本を読んで自分たちが言葉を喋っていること、それを使ってコミュニケーションをとっている事がいかにスゴいことか認識できた。その難しさの例として自動詞と他動詞が挙げられている。(これ以外にもたくさん例が挙げられている。)そんなの英語のテストのときにしか気にしたことがなかったが、よく考えてみると、なるほど言葉は難しいと考えさせられる。

  • この美しい街並み
  • とても美しい街並み

この2文は見た目よく似ているが、異なる文の構造を持っている、すなわち「かたまり」に切り分けた時の切り分け方が違う。語順を少し入れ替えて

  • 美しいこの街並み
  • 美しいとても街並み

としてみると、2つ目がオカシく感じてしまう。これは「この美しい」がかたまりをなさないのに対し、「とても美しい」がかたまりをなすことによる。AIが自然な日本語を使えるためには、これらの違いを認識できる必要がある。(人間がどうやって母語のこの感覚を習得したかはまだ明らかになっていないみたい。)このほかにもAIが言葉を理解すると言えるために必要そうな条件として意図を汲み取れるかという問題(「絶対押すな」は「押せ」のような、文脈や文化などについて知っていなければ対応できない)や具体的な行動を選ぶこと(「コップに水を入れて」と頼んだときには「どのくらい入れるか」という判断も求められるし「周りを濡らさないように」とかそういう配慮も求められる)のような問題もある。そもそも意味をわかっていることの必要十分条件は何なのか?ということもまだわかっていないらしい(確かに言われてみると答えられない。そんな状況で、どういう根拠に基づいて「機械が人間と同じように言葉を理解し話せるようになった、あるいはそうなっていない」と判断すれば良いのか。)

人間の言葉を理解できなければ、機械の言葉を評価することができない。

機械の言葉との比較によって、人間の言葉の本質の理解が進むかもしれない。

 なるほどな〜と思った。少なくとも私はこの本を読んで人間の言葉を見直すきっかけとなった。(この本には、意識したことはないけど言われてみると確かにムズイ…と感じる例がたくさん挙げられている。)言語学もおもろいな。また、AIはこれからの世界で切っても切り離せないものになると思うが、AIを「うまく使う」こと、AIを「正しく理解する」ことも必要だろうと思った。なるほどに溢れたいい本でした。

現代語訳 論語と算盤(渋沢栄一 訳:守屋淳) 

渋沢栄一は次の1万円札の顔に選ばれ、大河ドラマの主人公にもなった、とてもタイムリーな人物。日本実業界の父と呼ばれており、日本の資本主義と深く関わっていることもあって興味を持ち購入。近代日本の発展に尽力した人物であり、多くの会社や大学の設立に関わっていることでも有名。内容としては本書はその渋沢栄一が1916年に書いた「論語と算盤」を現代語訳したものである。内容を一言でいうと、「資本主義において利潤を追求するだけでなく道徳とも調和しなければならない」ということ。おっ、そんな感じの本読んだことあるぞ…?ここんとこ資本主義のマズさを指摘するような本を何冊か読んで、なるほどなるほどと思ってきた。そこでは「行き過ぎた」資本主義が社会に負の影響をもたらしていることが述べられていた。渋沢栄一は、資本主義が形成されていく段階で資本主義の危うさに気づき、「論語」の教えをその中和剤として組み込もうと考えていたと知り驚いた。

  • ただ、現代において正しいことを行ったならば、人として立派なのだ。
  • 物質文明の進歩が精神の進歩を害した。
  • 心の学問から知識を得るための学問に。ただ学問をするために学問している。「これだという目的がなく、何となく学問をし、実際に社会に出てから「自分は何のために学問してきたのだろう」という疑問に襲われる。
  • 成功とか失敗とかいうことを眼中に置いて、それより大切な「天地の道理」をみていない。
  • 何があっても争いを避けようとすれば善が悪に負けてしまうことになり、正義が行われない。
  • どんな手段を使っても豊かになって地位を得られれば、それが成功だと信じている者すらいるが、私はこのような考え方を決して認めることができない。素晴らしい人格のもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした豊かさや地位でなければ、完全な成功とは言えないのだ。

全体を通して「それは善か?道理にかなっているか?」を意識しながら生きていけ、というメッセージが伝わってくる。(善の例として論語の、忠:良心的であること、信:信頼されること、孝弟:親や年長者を敬うこと、仁:物事を健やかに育むこと、武士道の、廉直:心が綺麗で真っ直ぐなこと、義侠:弱きを助ける心意気、敢為:困難に負けない意思、礼譲:礼儀と譲り合い、などが挙げられている。これら「人の道」であるので全ての人に当てはまる)論語の元になっている孔子も"富が追求するほどの値打ちを持っているものなら、どんな賤しい仕事についても、それを追求しよう。だが、それほどの値打ちを持たないなら、私は自分の好きな道を進みたい"と言っているらしい(これにもびっくり)。渋沢はお金を「良く」使っていくべきことにも言及している。

こうした流れを踏まえ、本の中では「智・情・意」のバランスが重要と紹介されているが、詰まるところ、教育が重要ということに繋がっていく。(渋沢は学校が整備され、みんなが学べるようになった一方で、均質的な教育によって同じような人材を生み出すようになってしまったことについて嘆いている。)本書では「武士道精神」や「精神教育」という言葉も使われているが、一人一人の精神面の鍛錬(人格を磨くこと)の必要性を述べている。そういえば教育の目的は人格の完成だったな。

自分を磨こうとするものは、決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持って進んでいくことを心より希望する。言葉を換えれば、現代において自分を磨くこととは、現実の中での努力と勤勉によって、知恵や道徳を完璧にしていくことなのだ。つまり、精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨き上げていくわけだ。しかもそれは自分1人のためばかりではなく、一村一町、大は国家の興隆に貢献するものでなくてはならない。

 

この辺りの記述は現代の教育でも大切にすべき考えのように思う。今の教育は知識を習得させることに偏っていると言わざるを得ない(一応、道徳の教科化かなんかやってはいるけど、それはいじめ防止とかそういう現実的な問題が念頭にあるように思うし、大した変化は起きていいないと思う)。やはり、何が善か?(どう生きるべきか?)という問いは人間の本質なのだろう。新しい(西欧を発展させた)資本主義を取り入れ、その仕組みの上での国の発展させ先進国に追いつけという時代に「利潤と道徳の調和」に思い至っていた渋沢栄一はスゴい。大河ドラマが一層楽しみになった。

 

 

孤独の意味も、女であることの味わいも(三浦瑠麗)

何かのテレビ番組で出ていたのを見て、三浦さんがどのような考えを持っているのか気になっって買ってみた。三浦さんの考え方とそれを形成していった(割と大変な?)過去が述べられている。

読んで印象に残ったのは「女性性」について

社会的な意味での女というのは、おっぱいがついていることでもなければ、おしりが丸いことでもない。あなたはおっぱいがついているよ、と知らされることであり、おしりを見られることである。そして私たちは一つずつ動作を小さくすることを学ぶ。 

 日本はジェンダー格差が問題視されるようになって久しい。女性差別を解消する方向に社会は進んでいると思うが、もっと根本的な部分で知らず知らずのうちに女性を縛ってしまっているのかもしれないと思わされた。

 また、本文で「客体化」という言葉が出てくるが、この言葉を知らなかったので調べたところ、もう「女性の客体化」について1つ学べたのでそれも書く。性的客体化は sexual objectification(モノ化)から来ている言葉で、対象となる人を単なるモノとして扱うことを指す(女性が男性の性的欲望や快楽のための単なる道具であるという考え)。それには受け身の存在とみなす、意思や感情を尊重しない、他と置き換え可能なものとみなす、壊したり侵入したりしてもよいものとみなす、などといった側面がある。本の中にもあるように「見られる」ことが女性性の重要な要素であるとすると、その見方を望ましくない方向に誘導するような商品や作品は、ジェンダー差別を助長することになってしまう。影響力のある発信者は気をつけなければならないことがよく理解できた。

これでいいのか島根県(鈴木ユータ・鈴木士郎)

「なんでもかんでも神頼み!?」などという帯がついた本書。最近島根発信系youtuberを見て、島根のことを全く知らないことに気づき島根を見つめ直す意味で手にとった。「島根の全てがわかる」と書いてあるが、地域批評シリーズということで島根のヤバさを面白おかしく紹介しているのかな〜くらいの感じで読み始めた。読んでみると、実際に現地に行ってみて感じたことや、種々のデータ、歴史、近年の取り組み、地域の特徴など網羅的に書かれていて島根面白い…と思うに至った。また、批判だけではなく「こんなふうにしたらどうだろう」というような提案や現状の分析もあわせてなされており、なるほどと思うことも多くあった。そして所々クスッと笑ってしまうような表現もあり、あっという間に読み終えた。島根の人にも、それ以外の人にも読んでほしい1冊。行政の人たちはこの辺の情報知っているのだろうか?知らないなら直ちに読むべし。

神代や古代の逸話は有名だが、南北朝時代、旧三国時代から平成の大合併に至るまでの歴史はほとんど知らないことも多く、とても興味深かった。その都度イケそうな産業をやったり、長いものに巻かれたり、時々歯向かったり、内部で分裂したり。その歴史があって今の島根があるのだなぁと感じられたし、これをもっと早く知っていれば島根をもっと好きだったのにと思った。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は有名だけど、あれが古代出雲王朝の存在を決定づけたとは知らなかったぞ(笑)。

時代が進むにつれて島根は次第に取り残されていく。「陸の孤島」などと言われてしまうほどの交通の不便さがその大きな要因の1つである。一方で、その交通の不便さが昔ながらの街や風習を残し、地域ごとの特性を生み出した。その特性をうまく生かしていくことが今後の課題になるだろう。(とはいえもうちょいインフラ整えて欲しい)

人口減少で基本的に苦しいのは間違いないが、様々な魅力的な取り組みがなされていて、(空振りに終わっているものもあるけど)それなりにうまくいきそうなものもあることを本を読んで知った。(松江や大田のIT関連企業の誘致、江津のビジネスコンテスト、雲南の人材育成、美郷町のドローンを使った先進的な取り組みなど)これをうまくつなげて育てていけば島根もまだまだ輝けるかもしれないと思わせる内容だった。

何をするのが日本のため、島根のため、地球のため、そして自分のためになるのか考えながら生きていきたい。あと、島根の中で行ってみたい場所がたくさんできたので順番に見て回りたいなあ。面白そうだから鳥取の本も買ってみようか。

 

SDGs(持続可能な開発目標)(蟹江憲史)

これからの世界どうすべきかシリーズ、この前読んだ本では資本主義という仕組み自体が破綻しているというような内容であった。そこではSDGsにも触れられていたが、あくまで開発・経済成長を目指そうとすると利益追求のための搾取が入り込んでしまい、持続可能性から遠ざかってしまうということが主張されていた。SDGsについてはフワッとしか知らなかったので、本を読んでみることに。言葉自体は少し前から聞いていたし、掲げられただけのデカい目標かと思っていたが少し違うことがわかった。いま世界が抱えている課題は多様で複雑なものである。その問題の解決策として「人新世の資本論」の考え方はとても魅力的だが、少し過激な感もある。それに比べ、今の世界の延長線上に未来のあるべき姿を示したSDGsは実行可能性も感じられる革新的な取り組みであることがわかった。その特徴は

  • 環境と開発という2つの潮流を1つに合わせたもの。また経済・社会・環境は互いに関係し合い、互いに依存しあっているとされ、3つの柱から3つの側面へと統合された。持続可能な社会(将来の世代の欲求も満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発)の実現に取り組むための世界規模のコンセンサスができた。
  • 目標だけを定め、目標達成の手段に関しては細かいルールを設けていない。いわば答えだけが書かれた問題集であり、どのように目標を達成するかについては細かいルールは定められていない。また達成できなくてもペナルティはない。行動の創出を重視している。
  • 様々な指標を用いてその目標に対する到達度を測る。指標や認証制度が整えられつつある。
  • 世界規模で解決しなければならない問題として全部で17の目標(目指すべき到達点)とその目標をより具体的な数値で書いた169のターゲットが示されている。解決すべき課題が複雑であるため目標は多岐に渡るが、全てに一気に取り掛かる必要はなく、17個の入り口があると思う方が良い(結局全部繋がってくる)。
  • Society5.0も第4次産業革命も社会は自律分散協調的な方向へと向かう。中央集権的にコントロールするのではなく、自律分散的な主体が、ネットワークを通じて協調しながら、課題を解決したり、秩序を作っていったりする。そうした世界で重要なのが、共通目標や共有されたビジョン。その公共性に基づく共通目標を示しているのが、全ての国連加盟国が合意したSDGs

世界の共通目標を定め、その目標に近づくための行動を促す、という建て付けになっているのが大きな特徴とわかった。(最後の項目については「何を善とするか」という哲学的な見方もできる。)強制力があるわけではないのですぐにというわけにはいかなかったが、少しずつ意識が高まってきていて、次のように役立てられるようになってきている。

  • 様々な事業の長期目標を定めるのに役に立つ、またにその事業の進め方がSDGsの目標に沿っているか、というチェックに使える。解決すべき課題が事業をおこすヒントになる。
  • 金融業界もこの動きに注目しており、社会的課題を解決しているか、という非財務価値が企業の価値に大きく関わるようになって来ている。投資などを呼び込むどの項目にどのように貢献するか世界共通の言語となる。地方創生(自律的好循環の形成)の手がかりにもなる。
  • 製品を作るときには、素材や作り方に関するストーリー性が重要になる。
  • 研究開発で分野を超えたコラボレーションが生まれている。

少しずつ良い方向に向かっているようだが、当然課題がある。

  • 現時点でSDGsに貢献するためにはコストがかかる、経済的持続性の必要
  • はじめは支援を受けていても、最終的には事業として成り立たせる必要がある。採算がとれるようにいなければならない。
  • 地球規模の問題には公共財ゲームの側面がある、すなわち個別合理性と社会全体の利益が調節が必要。

コロナ対策も一緒だが、最終的には個人の意識を変える必要がある。個人が変わることではじめて企業や社会が変わる。そのためには1人1人、自分のできる範囲で行動を起こして様々な課題を自分ごととしてとらえることがそのきっかけとなる(それぞれの価値観によって起こす行動がバラバラでも良い)。いろいろ勉強する中で環境に対する危機感を持つようになり、地球の将来を考えるようになった。そして普段の生活の中で持続可能性を意識するようになった。コロナがグローバル世界の負の側面を炙り出し、これをきっかけにSDGs推進の方向に一気に切り替えるチャンスが来ている。環境破壊が進んでいると言われている中でも、時間をかけながら少しずつ持続可能な世界に近づけようという動きもしっかりと生まれていることが感じられ、未来に希望を感じる内容であった。今話題のSDGsを知る意味でも、世界がどう動こうとしているか知る意味でも、どんな未来を目指すべきか考える意味でも、この本を読んでよかったと思う。